まほうびんの歴史

まほうびんの歴史日本のまほうびんを育てた人々

寺本 梅次郎の写真

寺本 梅次郎(1893〜1996)
株式会社グロリア魔法瓶製作所
勲五等双光旭日章(1967年秋)
全国魔法瓶工業組合第2代理事長
昭和2年(1927)病に倒れた菊池武範氏(タイガー魔法瓶株式会社・創業者)にかわり、昭和4年から菊池製作所(現・タイガー魔法瓶株式会社)の支配人を勤める。昭和14年、菊池氏復帰を契機に退社し、魔法瓶組立販売業の寺本商店(現・株式会社グロリア魔法瓶製作所)を独立・開業。
昭和5年不況時の海外市場進出に際しては、一人台湾にわたり、大きなトランク2個に見本を詰めて店を訪問。そこで魔法瓶に湯を入れて一晩置いておき、翌朝再び訪れてお湯の温度を見てもらう実物試験を通じての取引で信用を得、台湾進出を成功に導いた。
出典:『タイガー魔法瓶70年のあゆみ』平成5年、『日本の魔法瓶』全国魔法瓶工業組合 昭和58年

西岡 鳴雄の写真

西岡 鳴雄(1910〜1978)
ナショナル魔法瓶工業株式会社
藍綬褒章(1969年春)
全国魔法瓶工業組合初代理事長
【花柄に先鞭】
昭和42年(1967)4月、それまでは単色だった魔法瓶に花柄を持ち込んだのがエベレスト印のナショナル魔法瓶工業であった。ブームの仕掛人・西岡氏は「適齢期になった女性は訪問着をほしがるように魔法瓶では花柄を求めると思う。これは花柄が良いかどうかはムードの問題だ。魔法瓶業界もデザイン、色彩面で適齢期になってきたということだ」と語っている。
【エアーポットの開発】
昭和47年(1972)4月、空気圧を利用したレバー操作だけで湯茶のでる卓上湯差を開発。それまで、重いポットを持ち上げ、傾けて使用していたポットが卓上においたまま、押すだけでお湯がでる仕組みになった。これ以降、他社も新機軸を打ち出し、次第に「エアーポット」時代へうつっていった。
出典:『日本の魔法瓶』全国魔法瓶工業組合 昭和58年

菊池 武範の写真

菊池 武範(1895〜1975)
タイガー魔法瓶株式会社
勲五等双光旭日章(1969年秋)
魔法瓶の仕入れ加工販売をしていた菊池武範は、自らの力で製品の開発から製造販売まで一貫して行う夢を描いていた。
「商品を作り出す以上、人から喜ばれ、愛されるものでなければならない」。
菊池のこの信念が、「品質第一、最強、最新、最美、最良」の製品を生み出していった。

山中 雅文の写真

山中 雅文(1909〜2002)
ピーコック魔法瓶工業株式会社
勲五等双光旭日章(1979年秋)
藍綬褒章(1974年春)
全国魔法瓶工業組合第4代理事長
【回転式卓上ポットの開発】
「昭和42年に花柄湯差が発売されるや、爆発的な人気となった。・・・二番煎じはおもしろくない。焦る心をおさえ、花柄は花柄でも、なにかひとつ新案をプラスした商品にしよう」
山中社長が考えあぐんだすえ頭に浮かんだのは湯差を回転させるアイデアだった。「回転式でないと売れない」という風に流れが変わったのである。
「当社は花柄湯差の発売が遅れたことが、かえって回転式の考案につながった」と山中社長は述懐している。
出典:『日本の魔法瓶』全国魔法瓶工業組合 昭和58年

市川 重幸の写真

市川 重幸(1922〜1987)
象印マホービン株式会社
従5位勲四等旭日小授章(1987年秋)
藍綬褒章(1978年秋)
全国魔法瓶工業組合第3代理事長
戦後の復興期、病を得た銀三郎に代わり経営の中心を担ったのが、復員した長男・重幸である。銀三郎没後、社長となった重幸は、国内新市場の開拓に努め、商品には革新的なデザインを採用し、テレビCMの活用にも打ってでた。
1963年、傾けるだけで湯が注げる『ハイポットZ型』が大ヒットし、象印マホービンを業界トップに押し上げた。1970年には電子ジャー『花雲』を発売し、電機業界への参入を果たした。1973年、傾けなくても、蓋の中央を押すだけでお湯の出るエアーポット『押すだけ』が大ヒットとなる。多彩な商品開発と海外各社との提携、営業組織の整備などを実行。1986年に株式上場を果たし、翌年会長に退いた。
出典:『象印マホービンの90年』平成20年

植村 駿二の写真

植村 駿二(1918〜1992)
植村魔法瓶工業株式会社
藍綬褒章(1984年春)
1957年中津魔法瓶製作所(佐久間勝蔵社長)より独立して、1959年植村魔法瓶工業株式会社(大阪市大淀区中津南通2丁目)を創立。その後移転し、和新ガラス株式会社に社名変更され現在に至っている。
「トイレの神様」がヒットした植村花菜の祖父。
出典:『十周年記念誌』全国魔法瓶工業組合 昭和38年

丹治 光一の写真

丹治 光一(1921〜1988)
ダイヤモンド魔法瓶工業株式会社
従6位勲五等瑞宝章(1988年春)
ダイヤモンド魔法瓶工業株式会社は、日本における魔法瓶の創製者・八木亭二郎氏の協力者、磯部金吾氏が創業。
昭和5年、山富洋行の大谷喜代治氏がジャワへ出張した際、広口、細口(厚瓶)を持ち帰った。大谷氏は早速、磯部魔法瓶製作所(現・ダイヤモンド魔法瓶工業株式会社)で、試作をしてもらい、工夫を重ねて広口魔法瓶の製法に成功。その後、東南アジア、中近東方面へ輸出。氷の貯蔵容器として重宝がられた。この広口が後年、魔法びつ、現在はジャーとよばれる製品として開花する。
当時、製造業者の悩みは、細口魔法瓶の中瓶が薄く破損しやすいことであり、保温効果を高めることであった。この問題に取り組んだのは磯部金吾氏である。磯部氏は粒々辛苦のすえ、遂に製造方法の新規考案に成功した。・・・この製法により細口瓶の破損と保温効力があわせて改善され、海外市場においても失地を回復した。
出典:『日本の魔法瓶』全国魔法瓶工業組合 昭和58年

寺本 巳之吉の写真

寺本 巳之吉(1916〜2007)
株式会社グロリア魔法瓶製作所
勲五等瑞宝章(1989年秋)
全国魔法瓶工業組合第5代理事長
昭和39年(1964)、弁当ジャー(温い弁当箱)を開発。「いつでもどこでも温いご飯が食べられる」と人気を博した。これを契機に外食用の必需品として業界主要メーカーは次々とアイデアを織り込んだ製品を生産・販売していった。
出典:『日本の魔法瓶』全国魔法瓶工業組合 昭和58年

菊池 嘉人の写真

菊池 嘉人(1934〜2020)
タイガー魔法瓶株式会社
藍綬褒章(1989年秋)
全国魔法瓶工業組合第7代理事長
ステンレス製まほうびん協議会第6、7期会長
商品の多角化をはかり、家庭用品、生活用品の総合メーカーを目指す
昭和43年(1968)創業45周年を機に、菊池武範から菊池嘉人へ社長交代が行われ、33歳の青年社長が誕生した。当時の商品構成は、魔法瓶から展開された商品(携帯用魔法瓶、保温水筒、アイスクリーム容器、ガラスジャー、ステンレスジャー、アイスジャー、ランチジャー)であった。
菊池嘉人は、創業以来の魔法瓶一筋の経営から、魔法瓶以外の商品に乗り込むことを決断し、大ヒットとなる電子ジャー「炊きたて」(昭和47年)や「スチーム餅つき機」(昭和46年)、調圧炊飯器高を搭載した炊飯電子ジャー(昭和51年)、オーブン電子レンジ(昭和54年)、電気ポット(昭和51年)などを生み出した。
また、「テレビ広告を中心とした販売戦略」を宣言。人気番組「8時だよ!全員集合」を獲得したほか、CMには茶の間に人気の美人女優(松坂慶子、十朱幸代、古手川祐子、沢口靖子)が登場した。
昭和58年、創立60周年に社名を「タイガー魔法瓶株式会社」に改め、さらなる商品分野の拡大を実施し「生活用品総合メーカー」を目指すとともに、海外マーケットの拡大やスヌーピとの提携商品の開発など海外ビッグブランドとの提携といった国際化政策を強化、販売政策の革新に取り組んだ。
出典:『タイガー魔法瓶70年のあゆみ』平成5年

市川 博邦の写真

市川 博邦(1931〜2016)
象印マホービン株式会社
勲四等旭日小授章(2001年秋)
藍綬褒章(1992年春)
全国魔法瓶工業組合第6、11代理事長
ステンレス製まほうびん協議会 第4、5、10、11期(半期)会長
昭和から平成へと移り変わる中、新事業や海外市場への積極的な展開を進めた。その結果、輸出売上は過去最高を記録。家電製品分野は売上の60%を超えた。
しかし、5年連続の売上増もバブル崩壊とともにマイナスに転じた。市場の価格競争は激しさを増し、円高の進展は輸出競争力を低下させた。
タイのユニオン象印に次ぐ海外生産拠点として象印シマテレックスを香港に設立するとともに支店の統廃合、営業拠点と配送センターの一体化など営業・受注・配送・業務の集約化による効率化を追求。省エネ・省資源を実現する商品や快適環境分野の販売を強化するなど、環境に配慮した取り組みを実施した。
出典:『象印マホービンの90年』平成20年

田中 信守の写真

田中 信守(1935〜2016)
オルゴ株式会社
旭日双光章(2008年春)
藍綬褒章(1994年春)
全国魔法瓶工業組合 第8、13代理事長
“ユニークさでナンバーワン企業であり続けたい”
創業100年〜オルゴ株式会社
【社名の由来】
オルゴは ALL GO (さあ行こう)
「みんなで快適な生活に向かって進もう」との思いが込められている。

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